浜松工業技術支援センター視察

浜松工業技術支援センター視察

私の地元新都田にありながら、なかなか訪れる機会が無かった浜松工業技術支援センターに本日、会派で勉強に行ってきました。
ここ浜松工技センターの研究室は「光科」「電子科」「機械科」「材料科」「繊維高分子材料科」の5科の組織運営となっており、技術相談、研究開発や人材育成、各種試験などを行っています。

今回はこの中で、本市の産業とは切っても切り離せない繊維部門について学びを深めました。
気候が綿花の栽培に適したことから江戸時代中期から日本の有数の綿花の産地であった遠州地方は、江戸後期になり農家が自給自足のため始めた綿織物を市場に売り出すようになりました。これが遠州織物の始まりです。
明治17年に遠州地方に初めて様式紡績工場が作られ、その後29年に豊田佐吉が小幅力織機を発明したことをきっかけに綿織物業が盛んになるわけですが、第一次世界大戦による欧州の生産能力低下で輸出志向にさらに拍車がかかります。
第二次世界大戦で一旦生産が落ち込むものの、朝鮮戦争の特需等で昭和30年代に生産はピークとなります。
わたしは信金時代、織屋さんが残る地域を担当していましたが、「がちゃまん景気」と呼ばれた頃は、屋根裏部屋に特別に作った部屋に田舎から働きに出てきた女工が住み、社長は毎晩のように千歳で大騒ぎをしていたと当時の若旦那から良く聞きました。
その後、生産過剰と労働力が安いアジアの新興国の生産が増えたこと、同時に遠州地域の産業構造が自動車部品製造にシフトしたことによって、多くの従業員が繊維業を離れました。

頂いた資料によると、従業員4人以上の繊維産業の推移は下記のとおりになっています。
・昭和48年
 繊維産業事業所 7541 従業員 57786 出荷額 244806百万円

・平成25年
 繊維産業事業所  296 従業員 5275 出荷額  94461百万円

もともと繊維業は、広大な敷地を活かして庄屋が綿花の栽培を始め、時代とともに織屋に業態を変えたということですが、繊維業界を取り巻く変化とともに廃業を決断したということ。しかし、もともとルーツは庄屋であるため、不動産を有効活用して不動産賃貸業を生業としている方が多いのだそうです。 
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また、本日は、武藤染工様から日本独自の染色技法である浜松注染そめについて説明を受けました。
プリント製法には無い、染料のにじみや混合によるぼかしを活かして雅豊かな深みのある多彩な染色が可能となります。

・・・と、ここまで書きましたが、明日も早く、そろそろ瞼が重くなってきましたので、この辺で今日は失礼します。

毎度、最後までお読みくださってありがとうございます。

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